まちの紹介

岡崎市の中心市街地
商いのふるさと・康生エリア

岡崎市(おかざきし)は、愛知県のほぼ中央に位置する中核市で、徳川家康の生誕地や八丁味噌の産地として知られています。特に中心市街地に当たる岡崎城を中心とした城下町周辺は、“家康公が生まれた地”という意味の「康生」という地名で親しまれ、そこを中心としたエリアは室町時代の開市より約500年続く商業地としての歴史を持っています。江戸時代には二十七曲りなどの施策から全国有数の宿場町として栄えました。戦時中は空襲による壊滅的な被害を受けながらも、有志中心の都市開発を経て、高度経済成長の象徴と呼ばれるまでに発展。盛衰を繰り返しつつ、いくつもの創業100年を超える企業とニューフェイスによる新店舗が混在する、“多様な商い”を有するエリアとして地域の人々から愛されています。

康生エリア 約五百年の歴史

室町時代 ▶ 安土桃山時代

1526年
大永6年
開市
現在の連尺通で商人が集まり、市場を開いた。この頃から、商業地としての歴史が始まる。
1531年
享禄4年
現在地に移城
松平清康(家康の祖父)が明大寺から現在の位置に居城を移した事で、お城近辺の菅生川北部(現在の康生エリア)が発展し始める。
1543年
天文11年
徳川家康公誕生
岡崎城で生誕。龍が昇ったという伝説がある。

江戸時代 ▶ 大正時代

1590年
天正18年
田中吉政が岡崎城城主に
田中吉政が岡崎城主となり、10年かけて二十七曲りなど岡崎城下を整備。慶長6年には東海道に宿駅伝馬制度が整備され、岡崎は宿場町として大いに栄えていった。
1872年
明治5年
城下町エリアを康生と名付け
旧岡崎城主郭部が『康生』と名付けられる。(明治8年とも)康生は、家「康」公が「生」まれた地を意味している。
1912年
大正元年
岡崎電気鉄道の運転開始
交通が馬車から電鉄に変わり、康生町に市電が開通。商業の中心地が国鉄の岡崎駅前から、再び康生エリアに移る。

昭和 ▶ 平成(戦争~高度経済成長期)

1945年
昭和20年
岡崎空襲
7月19日、菅生祭りで大いに盛り上がった日の夜、まちは空襲で壊滅的被害を受けた。当時の市長が、瓦礫の山と化した光景を前に呆然と立ち尽くす写真は有名。しかし13年後には戦災復興モデル都市に選ばれるなど、この地の底力は計り知れない。
1955年
昭和30年
闇市から二七市がはじまる
二七市の始まりは、第二次世界大戦の終戦後に八幡町で行われていた、闇市を母体とした「中央マーケット」が、康生町のたつき百貨店と本町の中央マーケットの2つに分かれて移転したことがきっかけ。マーケットが移転した後、八幡町に賑わいを取り戻すための施策として、八幡町発展会と街商組合が共同でこの市が始まった。
1971-1977年
昭和46~52年
康生エリアの大規模再開発
松阪屋の開業を始めとした大型施設の誘致により都市は発展し、1990年代には康生エリアは三河一の繁華街へと成長。その後、大型施設退去により、以前の活気は失われた。
令和以降の康生エリア
QURUWA戦略について

岡崎市と民間が一体となって進める「乙川リバーフロント地区公民連携まちづくり基本計画(QURUWA戦略)」では、エリア内の各拠点を『Q』の形に結び、エリアの一体的な価値向上を目指す取り組みが行われています。岡崎の玄関口である”東岡崎駅”、第一級河川である”乙川”の自然、観光名所である”岡崎公園・八丁味噌蔵”、文化と学びの”図書館交流プラザりぶら・市民会館”、憩いと交流の場である”籠田公園”などの各拠点を繋ぎ、多様な過ごし方から生まれる人流や交流の向上を目指しています。(マップ引用:岡崎市HP)

QURUWA戦略における“第2目的地”としてのまちの役割

エリア内には、集客力のある施設やイベントがありますが、それ単体の利用ではエリア全体の活性化にはなりません。大きな目的のためにエリアに足を踏み入れた利用者を“次の目的”に誘導し、エリアでの滞在時間や回遊性を高める必要がある中、各拠点を繋ぐのにちょうど良い立地にあるまちエリアとしては、小さな商コンテンツの集積を生かし利用者をエリアの内側に引き込む「第2目的地」としての役割を設定しています。

第2目的地とは

イベントや施設利用(第1の目的)のために外部からエリア内に足を踏み入れた利用者が用事を終えた後、“ついでに”立ち寄りたくなる「飲食・休憩・散策」等の小さな利用目的(第2の目的)が集積したエリアであり、拠点間の回遊におけるハブ機能の役割を担う。